哲学的ゾンビ…なにやら怖そうです。ですが、ホラーでも心霊の話でもありませんのでご安心を。
これは哲学上の一つの問題である「心身問題」について考えるときに、デビッド・チャーマーズという哲学者の考え出した「思考実験」つまり架空の話です。
心身問題とは、「心と体の関係の問題」です。もう少しかみくだいてズバリ「心とは何か?」という問題です。
心とは何か?…多くの人が一度は考えたことがあるのではないでしょうか。もちろん哲学者も同様です。
何千年もの間、多くの哲学者がこの問題を「あーでもない、こーでもない」と論じ合いながら、結論はでませんでした。まさに難問中の難問と言えます。
今回はそんな「心身問題=心とは何か」について「哲学的ゾンビ」という話を交えながら紹介をしていきます。
今回の内容はコチラ(目次です)
哲学的ゾンビとは哲学の思考実験
哲学的ゾンビとは、オーストラリアの哲学者デビッド・チャーマーズの考えた思考実験です。思考実験と言うのは、哲学者が考えるために使う手法の一つです。難しい問題を考える際に、頭の中だけで架空の話を作り出し思考のヒントとすることです。自然科学と違って哲学は実際に実験をすることができないので、こうしたやり方を使うことになります。
では、「哲学的ゾンビ」とは一体どんなものでしょうか。内容について紹介します。
哲学的ゾンビはこんな話
哲学的ゾンビとは「外見上は普通の人間と同じだが、クオリアを持たない存在だ」などという説明がされているようです。
うーん、ちょっとこれだけではピンときません。少し具体例をあげつつゆっくりと見ていきます。
ゾンビの前に・・・他人の心はわかるのか
例えば、ごはんを食べたとき「美味しい!」と言ったとします。なぜでしょうか?
関西弁で叱られちゃいました。
ですが、ちょっと待ってください。美味しいから「美味しい」という。確かに当たり前すぎるほど当たり前と言えますが、そうでないこともあるはずです。例えば・・・
B子「おまたせ!うまくできたか分からないけど、A男クンの好きなハンバーグよ♪」 A男「ありがとう!美味しそうだね、いっただきまーす♪」 ・・・うっ、なんて味だ・・・ 明らかに砂糖と塩を間違えている。それだけじゃない。得体の知れない調味料も入っているぞ・・・ 大丈夫か、おれは。頑張れ、飲み込むんだ・・・ B子「どう、美味しい?」 A男「・・・うん、すごく美味しいよ(汗)」
・・・ちょっとした地獄絵図ですが、割と身近な話かも。
男性も女性も身に覚えがある方は・・・スミマセン。
それはさておき、この話ではA男クンは美味しくないにもかかわらず「美味しい(汗)」と言ってしまっています。
B子さんがA男クンの内心に気づくかどうかは別として、A男クンは心の中と違うことを口に出してしまっています。
このことを、少し改まって哲学的に言うと、A男は「内心とは別の表現をしている」と言うことができます。
この話を少し進めると、「他者の内心は、外見上の表現からは知ることはできない」と言うこともできるでしょう。
B子さんが勘が鋭ければ、「あれ、A男クン『美味しい』って言いながら汗かいてる。美味しくなかったのかな・・・」と気づくことがあるかもしれません。ですが、それはあくまで推測であり、確実に「A男クン、私の料理がまずかったんだ!」と決めるわけにはいきません。
ここまでの話はほとんどの人が納得できるのではないでしょうか。それでは、ここまでの話を踏まえて、哲学的ゾンビの核心にせまっていきます。
※心の問題を扱った思考実験として(関連記事)中国語の部屋というのもあります。
哲学的ゾンビ
他者の内心は知ることができない。どんなにわかっているように思えても、それは推測の域をでるものではない。
ここまでは日常的によくある、身近な話だと思います。
これをもう少し進めると「心の無い他人」を想定することもできます。
心がないというと、「心がこもっていない」あるいは「心が冷たい」という風に思ってしまうかも知れませんが、そうではありません。 ちょっと想像しにくいかも知れませんが、「心」というそのものが存在しないことを指しています。
つまり哲学的ゾンビとは、心(内心)を持たない人間のことを言うのです。
彼(というのも変ですが)は、心はありませんが、外見上は普通の人と区別がつきません。
「あ、きれいな花だ」
「うわー、また失敗してしまった」
「何これ!めっちゃ美味いじゃん!」
と、普通の人が言いそうなことを言います。ですが、彼の内側では、きれいな花も、失敗の後悔も、美味しいという感覚も、一切ありません。
役者や俳優が、舞台の上で「お前を絶対許さん!許さんぞおおお!」と鬼の形相で迫っても、1時間後には「お疲れっしたー!」と打ち上げを楽しんでいたとしても、これはあくまで演技であり、「内心と違う行動を演じていた」ということに過ぎません。
哲学的ゾンビは舞台俳優として「お前を許さんぞおお!」とセリフを言っても、そもそも心(内心)がないので、「ここはクライマックスだから、気合を入れて表情をつくらないとな」とか、「あと少しで打ち上げだ」などという考えすら浮かばないのです。
哲学的ゾンビの持っていないクオリアとは?
私たちは頭で考えるということの他に、リンゴをみれば「赤い」とか、晴れていれば「気持ちいい」などと感じることができます。哲学的ゾンビにはこのような感覚もありません。
下の画像を見てください。
赤いですよね。
感覚の鋭い人は「赤っていうより、赤に少しオレンジが混じっているぞ」と見えたり、反対に、視覚に問題があれば、●が見えづらい方もおられるかもしれません。
ですが、人それぞれにその人なりの感じ方があります。この「人それぞれの感じ方」のことをクオリアと言います。
上の方で書いた「外見上は普通の人間と同じだが、クオリアを持たない存在だ」というのはこのことを指します。
ここまで行くと、「えー、そんなことってあり得るのか!?」という人も多いでしょう。そうです、これは思考実験であり、あくまで架空の想定の話なのです。
この文章を書いている私はもちろん、おそらくデビッド・チャーマーズですら、哲学的ゾンビが居るとは思っていないでしょう。(「○○は思っていないでしょう」と言っている時点で、心があることを前提していますね)
哲学的ゾンビは「いやぁ、昨日怖い夢見ちゃってさ~、びっくりして汗かいちゃってたよ」ということがあっても、夢も見なければびっくりもしてないのです。
こんな人がいるなんて、想像できますか!?
「哲学的ゾンビ」による議論
「哲学的ゾンビ」という思考実験を考えた哲学者デビッド・チャーマーズ。彼はいったいこの議論で何を主張したかったのでしょうか。
それは、人間の意識というものの重要性を考えることでした。
私たちの心は物質現象か?
哲学の議論の中で唯物論あるいは物質主義というものがあります。
これをざっくり説明すると「この世にあるものは物も生き物も人間さえも全て物質の集まりであり、物理的解明により全てが把握できる」という考え方です。
この考え方は、目に見えない人間の心も物理的な作用によるということになります。
例えば、人間が今「楽しい」と感じているか「イヤだな」と思っているか、これは現代でも脳波を測定すればある程度は分かってしまいます。現代の脳科学(専門的には神経科学)は21世紀に入り格段に進歩し、脳や心についてかなり解明されてきました。
最近では、セロトニンやオキシトシンというホルモンが感情を左右したり、精神的な健康や疾患に影響するということもかなり解明されてきました。
こうした研究は今後ますます進んでいくと思われます。となれば、人間の感情もより細かく測定するようになることも、かなり有りそうな話です。
いつの日か、「感情測定ウォッチ」で、奥さんに
「あなた、ニコニコしてるけど本当は怒ってるんでしょ。怒り82,2って出てるわよ」
なんて見抜かれてしまい、
「ほら、この帽子かぶって機嫌なおしなさいよ」
と「感情コントロールキャップ」をかぶせられるようになるかもしれません。
これはまさに唯物論的な発想が土台にあると言えるでしょう。
チャーマーズの唯物論批判
チャーマーズはこの唯物論を批判するために「哲学的ゾンビ」と言う話を持ち出しました。
唯物論的に考えると、普通の人間と哲学的ゾンビの区別はありません。どちらも同じように振る舞い、脳波の測定にも同じように反応します。
ですが、私たちの実感として、「意識があるか、それとも意識が存在しないか」というのはものすごく大きな差ではないか。
このように主張し、意識と言うものについて考える重要性を強調したのです。
まとめ
- 哲学的ゾンビとは哲学者デビッド・チャーマーズの考えた思考実験
- 哲学的ゾンビは心や意識をもたない
- 現代では心はかなりの部分、物質的に把握することができている
- チャーマーズは哲学的ゾンビにより、唯物論を批判しようとした
以上、哲学的ゾンビについて紹介し、さらに人間の心について考えてきました。現代ではかなり心について物理的に解明されてきています。これからさらに人間の心について研究が進み、いつか「人間の心についてすべて分かった!」ということが来るかも知れません。
しかし、そうなったとき、私たちの心とは一体なんだということになっているのでしょうか。哲学的ゾンビの議論は現在も多くの哲学者によって議論されている難しい問題なのです。