今回の内容はコチラ(目次です)
早熟の天才 龍樹のエピソードは悪者の成長物語?
今回は、龍樹の「空(くう)の思想」についてのお話である。龍樹(りゅうじゅ)というのはおよそ2世紀ころのインドの仏教僧である。
さて、この龍樹、なかなか破天荒な人物、幼少期から頭角を現す「生まれながら」型の天才で、様々な超人エピソードを持っている。
例えば、子どものころには当時隆盛を極めていたバラモン教の経典を全て暗記してしまい、どんな学者も幼龍樹に適わなかったとか、天文や地理などあらゆる学問に精通し、これ以上学ぶこともなくなり退屈してしまっていたとか、学問にも飽きてしまい悪友たちとつるみ、欲望のままに女の子たちに手をだしまくったりしたとか。なかなかの乱暴者だ。しかも頭が良いだけに始末が悪い。
そして、このエピソードにはなかなか強烈なオチがある。
そこら辺の女の子たちに手を出しまくった龍樹も、そんなことでは満足できず、ついには「最高の女を楽しむために王宮に忍び込もう!」などと思い立つ。量ではなく質を求め始めたのだ。才能と欲望は比例すると言えよう。何はともあれ、そのためになんと、隠れ身の術をマスターしてしまうのだ。
ああ、もうファンタジーの世界・・・
かくして、龍樹は、晴れて悪友たちと王宮に忍び込み、宮殿の女性たちにいたずらしまくったのである。しかし、こうなると王は黙ってはいない。少し羽目を外しすぎたようである。
激怒した王は、兵たちに「何者か知らんが、切り殺してしまえ。やつらの姿は見えんが、足跡を目当てにすればよい。女たちの部屋に砂をまいておくのだ。」と命を下した。
そんなことは知らない龍樹と悪友たちは、今宵も嬉々として王宮に忍び込み女たちを襲いはじめた。姿が見えないことを良いことに、大胆不敵である。
だが、地面にまかれた砂は、龍樹たちの足跡を顕わにし、警戒していた兵たちは一斉に襲いかかる。
たちまち悪友たちは切り殺されてしまった。慌てた龍樹は、目ざとく王の姿を見つけ、王のそばに駆け寄った。王の近くでは、兵たちも剣を振るえないことを知っていたのである。
王のそばで、身を縮めて震えながら仲間が斬られる様子を眺めることしかできない龍樹は、激しく後悔する。
「ああ、私がつまらない欲望をもったばかりに、大変なことになってしまった」
こうして、辛くも逃げることができた龍樹は、欲望が苦悩の原因であるという気づきを得て、出家し修行の道へ入るのである。
若いころにムチャクチャした挙句に大失敗し、改心して大物になるというステレオタイプを地で行くような龍樹のエピソードである。
隠れ身の術で王宮に忍び込むというあたり、史実としての信ぴょう性ゼロであることは否めないが、龍樹の人物の一面を示しているとは言えそうだ。
龍樹の哲学の真骨頂 「空の思想」とは
さて、前置きが長くなってしまった。ここからが今回のテーマの本筋である。
ずばり空(くう)の思想。
これは、仏教学的には、中観派(ちゅうがんは)と呼ばれる、立派な一学派である。ちなみにもうひとつ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)と呼ばれるものがあり、これらが大乗仏教の二大学派として互いに批判し合いながら成長してきたという歴史もある。
さて、この空の思想。実は結構難しくて理解は容易ではない。実際、専門書に数冊あたり、パラパラとめくったふりをしたり、枕にして寝て見たりと、色々試してみたが、正直「OK、わかったよ」とはとても言えるものではなしいし、まして、そのエッセンスを余すことなく抜き出し、わかりやすく説明するなんていうことは土台無理な話だ。
なので、ここではたとえ話に基づいて説明を試みたい。少しお付き合いください。
カントの「対象は認識に従う」とは
まず、物事をありのままに見ようとする。これは結構難しいことだ。
前回のカントのコペルニクス的転回についての話で、
「人間は物自体を認識できない」ということを紹介した。
人間は、リンゴというものの、そのありのままを認識することはできず、人間の認識のあり方に沿って、リンゴというものの一部を把握することしかできない。
こうしたことを、カントは「対象は認識に従う」という言葉で表現している。
テーブルとイスの実体とは?
さて、ここに食事用の木からつくられたテーブル
とイスがあったとしよう。このテーブルとイスを「ありのまま」に見ることができるだろうか。
あなたの目の前にある(と想像してください)テーブルとイスはどんなものだろうか。高価で立派なものだろうか。あるいは、古くて傷や汚れがあるものだろうか。
アンティークショップで売られているようなデザイン性のあるものかもしれないし、量販店であるようなシンプルなものかもしれない。
どんなものが見えているにせよ、上に挙げたような、なんらかの形容詞的なものがテーブルにもイスにも付け加えられるだろう。しかし、こうした形容詞的な表現は、あなたの心の中にある価値観から生まれたものに過ぎない。テーブルやイスに宿っている「実体」では決してない。
「実体」とは言わば、ありのままの「そのものズバリ」のことだ。
だが、逆に言えば、こうした形容詞的なものを伴わずに、テーブルやイスそのものを見ることは、実に難しい。
仮に「高価で立派な」や「傷や汚れがある」から離れて、ただ単に「木のテーブル」と「木のイス」があると感じたとする。それでも、イスやテーブルというのは人間の視点に基づいていることは否定できない。
テーブルは食器を置くための道具であり、イスは座るための道具である。
犬や鳥、虫などからみるとそのような道具としての役割は不要である。
テーブルやイスのような単純なモノですら、そのものを「ありのまま」に見ることは難しい。リンゴもそうだ。ありのままに見ることは難しい。いや、人間にとって、ものの実体を見ることなどほとんど不可能と言ってもいい。
この見方をさらに進めてみるとどうなるか。
上では木のテーブルとイスを例にした。素材は「木」である。
テーブルもイスも人間が「木」をもとに切ったりくっつけたりして、意図的に作ったものである。とすれば、「木」そのものについては本質があると言えないだろうか。人間の意図に染まっていない「木」そのものはあるのだろうか。
実体とは空である
結論から言えば、そんなものはない。
木は植物であり、植物としての器官なり細胞なりが集まったものだ。要は物理的な存在である。そして、物理的な存在は科学的に突き詰めれば、分子、原子につきあたる。
古代ギリシャの哲学者デモクリトスはものの本質は「原子」であるとした。
原子とは「分割できないもの」という意味である。
確かにこれ以上分割できないものであれば、ものごとの根本を作っていると言えそうだ。
しかし、原子は現在100個以上も見つかっている。さらにその原子も実は、さらに小さな素粒子からなる。
それでは、素粒子を最小の単位、物質の根本としてみてはどうだろうか。
おそらく、ここまで読まされて、「ああ、もうわかったよ。素粒子だって根本には成れないんだろ?」と思われた人も多いだろう。
いやはや、全くその通りである。人間が突き詰めて「これだ!」と行き当たったものも、明日の人間がまたそれを覆す。物理の世界では、巨人ニュートンをアインシュタインが覆し、その間違いを量子論が指摘した。2011年にはヒッグス粒子が初めて観測された。
この科学の営みは、人類の滅亡までとまらないだろう。
人間が、そのものズバリとして把握したと思っていても、それは結局、現時点における暫定的な見方に過ぎず、永遠不変の実体などとはとても言えないのである。
こうしたことを、徹底して追及したのが龍樹だ。
龍樹は、全ての存在に実体はない、つまり全ての存在は「空(くう)」であると見抜いたのである。
よく間違えられるが「空」とは「無」ではない。無とは字の通り、「無い」ということだ。
そうではなく、人が目の前に何かを見ているとき、
「いろんなものとの関連によって、そう見えるだけ。実体などはないのだ」
という全てを見通した洞察なのである。
素朴な感覚からすれば、目の前にテーブルがあれば「これはテーブルだ。疑う余地もない」と思うのが普通だろう。世界の把握のあり方を根底から覆すような、すさまじい知の転換である。
カントがこのことを主張したのは、18世紀のことであった。
そのカントに先立つこと1500年、東洋の龍樹は2世紀頃にはこのことに到達していたのである。中国では三国志のころ。日本では、卑弥呼が活躍していたころである。
龍樹は、古代東洋に誕生した世界屈指の知の巨人と呼ぶべき存在と言えよう。
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