「哲学」と言う言葉は割とよく聞く言葉です。
ですが「哲」っていったい何でしょうか?
哲学という学問があるのは分かる。だけど、それをどうして「哲学」呼ぶのか。
これには明治の哲学者「西周」という一人の人物が深く関わっているのです。
今回はこの問いに迫ってみます。
今回の内容はコチラ(目次です)
哲学とは翻訳の言葉
世界には学問と呼ばれる分野がたくさんあります。
「数学」「医学」「物理学」「社会学」「行動経済学」などなど…
これらの単語は、見るだけでそれなりに意味が分かると思います。
「医学」であれば病気を治療すること。
「社会学」なら、きっと社会について何やら研究しているんだろう。
それなのに「哲学」ときたら…「哲」について学ぶ…?
でも「哲」ってなんでしょうか?
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哲学とは明治時代の学者 西周によって考え出された新しい言葉
実はこの言葉は明治時代の学者の西周という人がフィロフィーという語を日本に紹介するために、考え出された翻訳の言葉なのです。
西周と書いてセイシュウ…ではなく、「にしあまね」と読みます。
彼は、江戸時代の終わりころ、島根県の津和野で津和野藩のお殿様に仕える医師の家で生まれました。なんと同郷の森鴎外とは親戚同士。かなり大物感が有りますね。
主に明治時代に活躍した学者で、日本哲学の父とも呼ばれる人物です。
彼は、西洋のフィロソフィという言葉を日本に紹介する際に、最初は「希哲学」という訳語を用いました。そして西は、いつの間にか「哲学」と言う言葉を使い始めこちらが定着して、現代へと続いていったのです。
哲学は誤訳? 研究者の間でも未だ定説はなし…
さて、この「哲学」と言う言葉と「希哲学」という言葉、どう違うのでしょうか?
そんなのどうでもいいよ…という声が聞こえてきそうですが、ここにはある意味「哲学の本質」というものも見えてくるのです。 少しだけお付き合いくださいね!
西洋ではもともと古代ギリシャに誕生したフィロソフィという学問がありました。これは「フィロス(愛する)」と「ソフィア(知恵)」という二つの言葉を合わせて一つにしたものです。
フィロソフィ=知恵を愛する
ということです。
これを西は「希哲学」と当初に翻訳したことは上で述べました。
「希とは”ねがう”」という意味で、「哲」とは哲人や先哲という言葉にも見えるように「賢い」とか「道理に明るい」という意味になります。
ちょっとごちゃごちゃとしてきましたね。下にまとめてみます。 フィロス=愛する=「希」 ソフィア=知恵=「哲」
なるほど、きちんと対応していますね。
それが、「希」が抜け落ちて「哲学」となってしまいました。
これについて西は明確に述べていません。
ただ、「哲学」と「希哲学」の間で随分と揺れたと言われています。
この、「希=ねがう」という文字を省いたことについて、現代では「誤訳だ!」と主張する声もあるそうです。また一方で、「哲」とは原理原則を求めることであり、西洋でフィロソフィとして行われていることと「哲学(希哲学ではなく)」は上手く対応しているという説もあります。
研究者の間でもいまだ定説に至っていないようですね。
西周は他にも様々な言葉を翻訳した
この西周という人物は「哲学」という言葉を考案し、定着させたことから「日本哲学の父」と呼ばれたりもしています。
これだけでもすごいことですが、この哲学の父はほかにも様々な西洋の概念を日本に紹介するとともに、日本語に翻訳しました。
西周が翻訳した西洋の概念
西周は「哲学」という言葉の他にも、多くの西洋の概念を日本に紹介し、日本語として定着させました。
「概念」「理性」「帰納」「演繹」「主観」「客観」「肯定」「否定」「総合」「分解」
これらの言葉は、学術的に用いられることもあれば、日常的に使うことも多いでしょう。
私たちがモノを考えるときは、必ず言葉が必要になります。
逆に言えば、言葉がなければモノを考えることはとても難しくなってしまうでしょう。
と、こういう風に考えれば、今の私たちの日常や、科学も西周の活躍がなければ、成り立たっていなかったとも言えるのです。
これってすごいことだと思いませんか??
現代日本の学問は、西周の活躍があってこそ!?
現代の私たちの生活は、多くの科学技術に支えられています。そしてその科学技術は、西洋の近代科学、さらにさかのぼって古代ギリシャ哲学とも深い関係があります。
そのような西洋の概念を、日本に紹介し、日本語として訳出した西の活躍があってこそ、私たちの今の生活が成り立っているとも考えられるのです。
ここで少し立ち止まって考えて見て下さい。
もし、西周の翻訳がなかったとしたら、今の私たちが科学やテクノロジー、技術についてどのように考えていたでしょうか。
上で紹介した「概念」「理性」「肯定」「否定」と言ったような言葉まで、英語やラテン語などの外国語で考えなければならなかったことでしょう。
実は、こうした概念や用語を母国語で考えられる国はそれほど多くないそうです。
確かに翻訳は、誤訳の問題や、本来の意味やニュアンスを正確に伝えきれないという部分はあります。
ですが、こうした概念を日本語で考えられると言うことはとても幸せなことだと言えそうです。
個人的な感想ですが、わたしは、哲学の父、西周と言う人物はもっと高く評価されてもよい人物ではないかと思ったりもします。